私信

生物部の田中君

 

素敵な青年と出会った。仮に田中君としよう。大げさかもしれないが田中君に日本の希望の一端が見えた。

 

娘の通う高校の文化祭での一幕。
エントランスに設えられた賑やかな模擬店で、友人たちと青春の時間を過ごす我が子の元気な姿を見たあと、受付で貰ったパンフレットに目をやり、各文化部の発表目当てに校舎内へ。田中君と出会ったのは南棟二階一番奥の教室だった。

 

無人の生物教室。

記憶とイメージそのままの様相で、端に蛇口と流しが付き横長で天板が白く光るテーブルがずらっと並ぶ。入って右手は南面で運動場側、梅雨前の晴天から初夏の陽射しが降っている。きちんと留められてはいないカーテンが風に揺れ、汗が引いていくのが分かった。その反対側の窓の下には棚が連なり、裏正面の壁に続いて常設の大小様々な標本や資料が少し埃をかぶりながら空間を埋めている。

生物部の発表の場だった。教室前部の講義台と、白いテーブルの半分くらいに今回の発表が展示されていた。

一番多いのが水槽。数は10くらいだったか。それぞれに色んな生き物がいた。漏斗状の容器に土が容れられ、上から白熱球で照らされている風変わりな展示が目を引いたが、覗いたところ何もいる様子はない。

南側のテーブルには顕微鏡が並んでいる。少しでも明るくして見え易くする配慮だろうか。顕微鏡のパレットにはなにやら虫の羽根が乗っている。どれどれと近づいたとき声を掛けられた。

「それトンボのハネです。見ますか?」
臆する様子のないまっすぐな声。彼が田中君だ。

 

「あ、いいの? 見る見る。見よかな思ててん。でもやり方分からんくて。」

「どうぞどうぞ、ちょっと待ってくださいよ、調節しますね。」
頑張って敬語で言ってくれようとしているからか、少し関東弁のニュアンスを帯びている。

「どうぞ。よく見えますよ。」

「いい? おーーー。見える見える。へーーー、きれいもんやな。」

「毛があるの見えますか。」

「毛??」

「ところどころに毛みたいのがあるんです。」

「えーーと、あーーあるわ、区切りになってる中に何本かずつピって小さく出てんな。」

<参考画像:顕微鏡解析室さんより>

 

「なんでこんなん出てんのかな。」

「なんででしょうね。水を弾くためですかね。」

「なるほど。そうかもしれんね。へーーーーー。」
たしかに、水が拡がると飛べないだろうし間違いではないかもしれない。

 

「おにいちゃん来てくれて良かったわ。見れて。」

しばらく眺めていると次の顕微鏡を促してくれた。
「こっちはカメムシなんです。こっちも見ますか。」

「見る見る。カメムシ? また敢えてカメムシなんやな。」
それには反応がない。

「動かして見てみてくださいよ。たのしいですよ。」

「動かす??」
と言ってパレットを触ろうとすると、

「いえ、このツマミで台ごと動きます。」
と教えてくれた。

「へーー。いまの顕微鏡ってこんなんなってんねんなぁ。おっちゃんらの時はなかったわぁ。すごいな。」
あったのかもしれないが、ちょっと喜ばせたくて言ってしまった。

「立体やから見たい場所によってピントを調整して下さいね。」
彼の言うとおり、対象は小さいながらもレンズとの距離が都度変わるので見る部位によってピントを触る。ピタっとあった時の解像度が素晴らしく、機械操作をしている感覚も味わえて普通に楽しい。

「めっっちゃ見えるなぁ。表情ゆたかやなぁ。迫力あるわ。たのしいなコレ。ひとりやったら出来んかったわぁ。ありがとう。」

 

しばし顕微鏡展示を楽しんだあと、いっぱいある水槽の方に目をやり、「生き物もようさんいるねんな」と言うと、彼はおもむろにすぐ近くの水槽からでっかい虫をつかんできた。

「おーーーー、タガメやん!」
とても大きい。

「そうです。タガメってカメムシ目なんですよ。目(もく)って分かりますか?」

私が顕微鏡覗きながらいちいち、おーーー、や、あーーーーや、へーーーと、大げさな感嘆を続けていたからか、このひとあんまり何も知らないオジサンと映ったようで丁寧に説明してくれようとする青年。

いや分かるよ、目ね、せっかく君が親切に楽しく接して説明してくれるから、ウン楽しいよと伝えたくてちょっと反応が大きくなってしもただけやで、と思いながら、

「モク? えーーっと、」
ととぼけると、

「生物の分類ですよ。ぼくらもサル目ヒト科です。サル目。その目です。」
と屈託のない笑顔。

「(そういえば、というフリをして)あーー、その目ね。聞いたことあるワ。そっか、タガメってカメムシの仲間なんやぁ。」
それは本当に知らなかったので実際感心した。

「カメムシいうたらクサイやんなぁ。タガメって食べれるけど、臭くないんかな。」
と言うと、食用になることは知らなかった様子で、東南アジアとかでは高級食材やで、と教えてあげると少しびっくりして、また調べてみますと言った。

 

生き物はほかにカエルや魚や昆虫・虫たち。一つひとつ見ると中々ボリュームがある。白熱球に照らされてた展示は何か尋ねると、白熱球の熱で土の中にいる小さな生き物が熱から逃げるため土に潜り、漏斗の下から出てくるとのこと。自分は気づいていなかった、下に置いてあった縁の浅い容器を彼は手に取って、「ほら、ココ。小さいのが動いているでしょう。」と見せてくれた。もぞもぞ’点’が歩いている。

 

彼との時間を続けたかった私は「前の方の展示はなになん?」と言って、二人で講義台の方へ。そこは昆虫の標本づくりのコーナーだった。後ろ脚の長いムシが並んでいる。

「わ、なにこれ、カマドウマ??」
[別名:便所コウロギ]

「違います、キリギリスです。」

「え、キリギリス? キリギリスって羽根なかったっけ?」

「これ羽化する前なんです。5回脱皮するんですけどこれは4回目です。」
[調べたら正確には6回の模様。]

「このあとに羽化します。羽化って言葉いいですよね。本当にハネが生えてくるから羽化。」

常に活き活きと話す彼。私に精一杯説明してくれようとする気持ちが溢れている。傍に置いてあった旧そうな書籍の該当のページを開けてくれ、有翅なんたらの説明を詳しく始めてくれたけど、少し専門的でよく憶えていない。

 

「なるほどなぁ。ところでおにいちゃんは名前なんて言うの?」

「田中(仮名)です。」

「田中君かぁ。いやほんまありがとう。色々説明してくれて。おっちゃん来た時誰もおらへんかったから、田中君来てくれへんかったら、さ――っと見ておわりやったかもしれへん。めっちゃたのしいわ、ありがとうね。」
はにかむ田中君。

「生物部は何人いるの?」
と聞くと、三人ですと。ほかの二人はいま放送部に何かの用事に行っているとのこと。

「そっかぁ、三人だけやけど頑張ってるねんな。少数精鋭言うやつやな。ちなみにいろんな生き物見せてもらったけど、どうやって集めたの?」

「全部自分たちで採ってきます。」
確かほとんど田中君だと言った気がする。

「そっか。じゃココの裏にもおっちゃんら子供の頃遊んだ○○山って山あるけど、そんなとこに休みとか放課後に行ったりするんやな。」

「そうです。山とか野原好きです。映画観に行ったりするとお金要るけど、野原はタダです。タダでたのしいって最高です。」

「おーーーーー、いいねぇ、地球が遊び場なんやな。」

「その表現いいですね! 地球が遊び場。そうですそうです。」
笑顔がこぼれる田中君。心の綺麗さが出ている。

 

5匹ほど並ぶキリギリスはぐったりしている。触られ過ぎたんだろうか。生物大好き田中君はガシガシ臆せず手でいく。でもハンミョウとか毒のある昆虫はやばいです、とも教えてくれた。あとゴキブリも触れるけど、赤痢菌とかあるので注意が必要ですね、と言った。

「そっか。生息してる場所の菌とかは帯びるわなぁ。なるほど。けど、じゃあなんでゴキブリ自体は赤痢菌に耐性があるんやろう。あと、ゴキブリが弱る菌とかウィルスもあるんかな。」
と言うと、田中君一瞬止まって、

「・・。ほんまですね。耐性、、何でですかね。ゴキブリが弱る菌、たしかに。その視点はなかったですね。研究したいです。」
と眼鏡の奥が少し引き締まった。

[解説:毒があるのはツチハンミョウの仲間。

脚の関節からカンタリジンという毒を含む黄色い液体を出す。 このカンタリジンは、数十ミリグラムで大人の致死量になるという猛毒。 ツチハンミョウ数匹分の毒を集めれば人を殺せるとも言われる。そんなツチハンミョウの毒が皮膚に付くと、火傷のような水ぶくれができる。]

 

ほかにもいっぱい色んな話をしたが、田中君は終始楽しそうだった。生物が心底好き。カメムシに反応しなかったのも彼の中では昆虫の中に差が無いからだったんだろう。

まっすぐで親切で、でも自分の中に好きなものという一本の軸があるからか、自信の無さのような様子がない。私は、ここまでの30分ほどですっかりファンになっている。いやファーストコンタクトから直観でやられていた。おっさんの相手を向こうからしてくれたことだけで嬉しいものだ。

『あなたのような方は素敵なんですよ。』と伝えたかった私は、彼を応援したい気持ちが自然に所作に出てしまっていたが、彼からするとリアクションがおっき過ぎるオジサンだったかもしれない。

 

そのときチャイムが鳴った。

田中君が、あ、1時ですよ、行かなくていいんですか?と聞いてくれた。どうやら13時からホールで吹奏楽の演奏があるらしい。文化祭のメインイベントと言う。吹奏楽部はこの高校の花形、部員も何十人。その振りも彼の親切心だった。

「いいねんいいねん、田中君とおる方がたのしいわ。吹奏楽はまたいつか聴けるし。」

 

やり取りはまだ少し続いた。

「ところで田中君は将来何になりたいとかあるの?」
好きなものにそのまま向き合っている青年の夢を聞いてみたくなった。

 

「ん-----。」
すぐには答えなかった。

「なにかは分からないですけど、なににせよ、国のためになることがしたいですね。」

 

「え?」思いもしなかった一言に面食らった。

 

「え、なんで?」

「だって、ここまでの毎日は国があるからじゃないですか。国が無かったら今がないと思うんです。国があるからこの学校もあるし、こんな機材とかもあって、したい研究が出来る。日本のためになる人間になりたいです。」

 

無理をして言っていない。若者が清清しく口にした、日本に恩返しをしたい、という言葉に私は感動した。ハナから彼の純朴な魅力に惹かれているのにこの発言でトリップしそうになった。

「めちゃくちゃええこと言うやん! そうやねん国があるからぼくらは平和に暮らせるねん。おっちゃんもな、どうやったらこの、今はまだ何とか平和で安心して暮らせる日本を将来も守っていけるか、ずっと考えてるねん。若い田中君が国のためになることをしたいとか、そんなこと言ってくれておっちゃんめちゃくちゃ嬉しいわ!」

と言うと、おもむろにスマホを触りだし、最近読んだ本の画像を見せてくれた。記憶が曖昧だが、台湾の方の著作で『〇〇の近現代史』だったと思う。黄文雄氏だったか。

「えーーーー、そうなんや。すごい! じゃ、百田尚樹さんの日本国紀も読んだ?」
と問うと、

「もちろんです! 海賊と呼ばれた男も永遠のゼロも!」
と目を輝かせた。

 

こんな子は珍しい、高校生では少数派なんだろうかと思ったが、聞けばそうでもないらしい。そこはやはりインターネットが大きな役割を果たしている模様。時に日本のことについて語り合う若者の姿が脳裏に浮かんだ。

「田中君ありがとう! ほんまにおもろかったし嬉しかった。ありがとう!! これからも好きなこと楽しみながらがんばってな!」
ちっちゃい女の子を連れたお母さんが次のお客さんとして入ってきたのが見えて、私は生物教室をあとにした。

 

世の中は振り子という。どちらかに大きく振れた後は、次に反対側に振れる。この国、日本の未来も暗いだけではないと気付いたある日の僥倖だった。

 

生物部のあとに寄った化学部の発表、『ビスマスの結晶の作成』にも田中君の名前が。掛け持ちだそう。なんと素晴らしい学生か。

田中君(仮名)。君に幸あれ、との想いが胸を満たしていた。帰り道汗ばんだのは西陽のせいだけじゃなく、心の内にも熱気が込み上げていたからかもしれない。でも不思議に心地良かった。

日本弥栄。