私信

コロナ禍三年

 

先日息子の高校の卒業式があり出席しました。

 

まだまだ制約付きの式でした。校歌等各斉唱はまだ許されずCD音源の演奏のみでした。あの斉唱が心に深く響く部分ですのにまだ我慢をさせられていました。

 

校長先生の式辞を始め、担任教師の卒業生の名前読み上げ等、マイク前での発声はマスク着用を徹底されていました。
そんな中、卒業生代表の女子生徒さんは答辞をマスク無しで堂々と、立派に、話されました。

様々なことを考え、そうすることに決められたのでしょう。とても素晴らしいと思いました。想像するにきっとご両親にも相談されたことでしょう。ご両親も素晴らしいと思います。三年間の思い出を語られる中で時折感極まって言葉に詰まっていらっしゃる姿に、私も涙が溢れました。たくさんの悔しい思いをし続けた三年間だったと容易に想像できます。気概を感じました。と同時に、私にはマスク無しでの答辞は、世間への少しのアンチテーゼに映りました。

 

校長先生は、「密になりたくても密になれない、そんな三年間だったと思います」的なことを話されてました。その判断をし要請したのは我々大人です。科学的根拠の乏しい大人の判断で青春の三年間の自由を奪いました。

校長先生は、どんな困難にも挑戦していってほしい、未来を拓いてください、と式辞を結ばれました。

大人は、自分も含めこういうことを言いがちです。

で、自分は挑戦して、未来を拓いていっているのか。自分にも問わなければなりません。聡明な子供たちはそう胸の中でツッコんでいることでしょう、おまえはしてんのか、と。あるいは、ハイハイ、と冷めて受け止めていない子もいるでしょう。

 

 

昨日の朝刊。

このグラフを見て気づかないでしょうか。おかしいと思いませんか。

ずっとずっとずーーーーっと、三年間、世間はいわゆる対策をしていました。感染者数は、何かをやめたから増え、何かをしたから減ったのでしょうか。

私には、増えるときは増え、減るときは減る、にしか見えません。対策の合理性はどこにあるのでしょうか。

 

ちなみに卒業式は当初、「各家庭で出席は保護者一人」という条件がありました。は??って思いました。みんな毎日電車やバス乗ってるやん。と誰しも思います。保護者はしゃべりません。座っているだけです。

おそらく色んな声が寄せられたのでしょう。直前になりその制限が解除され出席が叶いました。私もせめて保護者一人の理由を聞かせてほしいと思った矢先でした。校長先生を始め、学校、それを司る教育委員会、の皆さんはきちんと考えられたのでしょうか。甚だ疑問です。上が決めたから、に流されていませんでしょうか。

三年間、校内のどの行事も「保護者一人」という制限でした。私は学校で実際に息子の姿を見たことがついぞありませんでした。青春を楽しんでいる笑顔を現場で見たかったものです。最後の最後でようやく見られた、卒業式での仲間と生き生きとはしゃぐ成長した息子の姿に目を細めました。

子育ては人生のなかで大きなことのひとつです。子供の成長をともに楽しむ親の権利を奪っている自覚をお持ちなのかと問いたい。仮に上の判断に従った結果だとして、せめて意見を上げることはして下さっていたのでしょうか。

 

 

さいごに余分なことをもう一つ。

教育委員会の祝辞。

校長先生の式辞と同内容でした。中段のスポーツ選手の例を取り上げられている様も同じ。結語は挑戦と未来。
あくまで偶然でしょう。

私は頑張れとは言えません。「皆さんの幸せを願い、祈っています。見守っています。」ぐらいしか言えません。

 

 

日本は良い国です。良い国柄です。

その一方で周りと違う言動を遠慮する気風があります。そのことが全体の幸福につながることが多いので見過ごされがちですが、今回のコロナ騒動はその悪い面が出ました。

なんかようわからへんけど、したほうがええんやろ。

みんなしてるから、せなあかんやろ。

テレビでゆうとったで。

その結果の三年です。自ら首を絞めました。けっして幸福ではなかったと思います。

繰り返しますが、子供たちの自由も奪いました。

 

自分の頭で考える、ということを本当の意味で正面から捉え、生きていきたいものです。

マスクを外し、答辞を自分の言葉で、堂々と話された女子生徒さんのように。

 

『君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず』